プレマルの雑記

いわゆるブログです。

後にも先にも孤独。

人はいつか死ぬ。

それは、抗うことのできない絶対の掟。

 

おそらく誰もが人生のどこかで『死ぬことが怖いか』というような話をしたり、もしくは、小耳にはさむことがあるだろう。

 

ちなみに、私の場合はノーだ。私という生物が動かなくなり、灰になることそのものへの恐怖はない。

 

しかし、死ぬ前の数年間と、死んだ後の骨がどこに行くのか。それを考えると夜も眠れなくなる。

 

なぜなら、私は独りだから。

 

私が独身のまま老いたとする。

親は先に逝っているだろうし、兄弟姉妹は今日現在で既にいない。

兄弟姉妹の子どもだっていない。

私と一緒に老いる妻も、子どももいない。

 

友人だって年をとる。私が老いれば友も老いる。

いつまで友が元気でいられるかわからない。いや、仮に元気でいたとしても、会える距離に住んでいるかわからない。

 

そうして、私は完璧な独りになる。

老いた私と一緒に暮らす人がいないどころではない。訪ねてくる人すらいないのだ。

 

数十年と時が経ち、老いた私はどこかで独りで暮らしている。

誰かが訪ねてくることもない。毎日独りだ。

そのうち一人で生きられなくなる。原因はガンか痴呆か。まあ、その辺りだろう。

なんにせよ、一人で生きられなくなれば、公の力を借りるしかない。

そうして、何かの施設へ行くのだろう。

そこが終の棲家だ。

当然、そこにも、私を訪ねてくる人はいない。

 

そうこうしてるうちに私は死ぬ。看取る人はいるだろうか。

死後、私の身体は焼かれ、灰となる。多少の骨は残るだろうか。残ったとして、骨はどこへ行くのだろうか。

公営の墓地へと入れられるのだろうか。いや、そのときには時代が変わっている。別の処分方法が編み出されていることも十分在り得る。

そうなると、私の父と母と兄は同じ墓に入っているのに、私だけ別になってしまう。

 

死ぬ前も、死んだ後も独りだ。ずっと、ずっと。

 

私は、そこまでの罰を受けるほど、悪いことをしたのだろうか。

勘弁してくれよ。あんまりだろ、こんなの。

火災保険の豆知識~原付盗難編~

Xでフォロワーさんが原付を盗難された!とおっしゃっていたので、保険屋目線での話をここに書いてみようと思います。

この原付が、125cc未満と仮定した場合、保険屋は以下のように考えます。

 

原付に保険が掛かっている場合、それは、自動車保険「火災保険」の2つに絞られるます。(厳密には他にもあるかもだけど、それはレアケース中のレアケースだと思うので、除外します)

 

一般の方であれば、原付に被害があったんだから、原付に掛けている保険=自動車保険が頭をよぎるかと思います。

 

しかし、原付などの二輪車は、自動車保険に加入していても、車両保険(自分の車両を修理したり、全損になった場合に買い直し費用がでる保険)に加入する人は少ないです。

なぜなら、四輪車に比べて、自車両に損害が起きる可能性が高いので、保険料が高いからです。

 

すると、二輪車の場合、対人保険と対物保険(相手の身体や相手の財物に損害を与えた場合に弁償する保険)にのみ加入するというのが一般的なやり方です。

 

つまり、原付が盗難された!という時点で、おそらく自動車保険には入っているだろうけど、自車両に対する補償まではついていないはず。だから、自動車保険は出番がないだろう。と予想がつきます。

 

さて、次に考えるのが「火災保険」です。

 

個人で加入する火災保険は、「建物」または「家財道具」に保険を掛けるパターンが一般的です。

この「家財道具」というのがポイントです。

家財道具とは、ざっくりと言うと、「その建物に引っ越してきたとき、建物に備えついておらず、自分で搬入してきた物は全て家財道具」です。

そして、自宅内の収容物ではないですが、125cc未満の車両も家財道具としてみなされます。

 

長くなりましたが、要は原付は家財道具ということです。

 

あとは、家財道具を補償の対象とした火災保険に入っているか、が問題です。

これはまあ、人によるとしか言いようがないのですが、購入した住宅にお住いの方で50%以上、賃貸住宅の方ならほぼ100%の方が家財道具を対象とした火災保険に加入してます。

 

ここまでをまとめると、原付に損害があったら火災保険が使える可能性が高い。ということです。

慣れた保険屋ならば、原付が盗まれた!の2秒後にはこの考えになります。

 

後は、火災保険の補償の範囲や、原付をどこに停めている場合の被害なのか、によって支払いの可否が変わってきます。

でも、聞くだけタダですから、原付に被害があった場合は、火災保険の保険屋に連絡を入れてみるのは、かなり有効な手です。

 

私自身、若いころに自宅マンションの駐輪場に置いていた原付がイタズラされて、動かなくなりました。色んなパーツ類を盗難されていた感じです。

その後、火災保険を申請して、15万円ほど貰いました。

正直、その原付はほとんど乗ってなくて、駐輪場に放置してたようなもんだったんですけどね。(警察曰く、だから狙われたのでは?とのこと)

 

と、まあ多少の余談はありましたが、保険屋的には原付の盗難という言葉から、こんな風に想像が出来ます。

 

みなさんも、何か被害があったら、ダメ元で保険屋に聞いてみましょう。

意外と出るよ、保険って。

七夕の思い出

2019年7月7日。

病院に呼び出された。

用件は、入院している兄の様子が良くないとのことだった。

 

4人家族だった。

父と母と兄と私。

3人で、急いで病室へと向かった。

 

病室で横たわる兄を一目見てダメだとわかった。素人目に見ても明らかだった。

呼吸器をつけられてはいるものの、呼吸の仕方が普通とは違った。

下顎が上下することで無理やり口が開き、まるで鯉が水面に顔を出して口をパクパクと動かしているような呼吸だった。後に調べて知ったことだが、下顎呼吸と言い、死ぬ間際の人間の呼吸だそうだ。

 

完全に意識はないように見えた。実際、なかったらしい。

兄の鼻からは、痰のようなものが逆流しており、それが鼻の辺りを白く汚していた。

看護師さんにそれを伝えると、吸引機でとってくれたが、しばらくするとまた逆流していた。見ているのが苦しかった。

その作業を行う看護師さんからは、してもしなくても変わらないのに……といった雰囲気が漂っており、ああ、兄はもう助からないのだと私は確信した。

 

当時、喫煙者だった私と母は、タバコを吸いに一旦外へと出た。

少し傘を差したくなるような、小雨が降りしきる中、タバコに火を点け、一寸だけため息を吐き、虚空を見つめた。

 

「お兄ちゃん、今度もまた、乗り越えられるかな?」

 

母はそう私に尋ねた。

乗り越えられる? 何を言ってるんだこの人は。

もう、どう見ても駄目じゃないか。

 

 

 

遡ること10年前。2009年のこと。

兄は神経膠腫という病にかかっていたことがわかった。平たく言えば脳腫瘍だ。

外科手術で取り除いた腫瘍は、ピンポン玉ほどのサイズがあったらしく、病理検査の結果悪性であることが分かった。

一度は取り除いた腫瘍だったが、しばらくすると再発した。

そして、また取った。

また、再発した。

これを4回行った。

手術をする度に、聡明だった兄は忘れっぽくなっていった。

あれ、それ、と言った言葉が増えていった。

視野の欠損や、てんかんの発作がときたま起きるようになった。

大好きだった車の運転も出来なくなっていった。

それでも、兄は前を向いて生きてきた。

 

 

 

母が言う”乗り越える”とは、今まで繰り返してきた手術のように、再発をすれどもその都度手術をして、乗り越えたきたということだろう。

そうやって今回の窮地も、自分の息子ならば乗り越えられると信じたかったのだろう。

 

でも、今回ばっかりは無理だ。

我々家族も覚悟決めなければならない。

 

「乗り越えるとか、そういう次元じゃないと思うよ。今日を乗り越えられるかどうか、それくらいでしかないと思う」

 

そう正直に伝えた。

母は、「そっか」と短く返した。

 

 

病室に戻り、特に出来ることもなくただ兄の姿を見つめていた。

気づけば面会時間も終わりに近づいており、このまま病室にいてもいいですよ。と言われたが、病院と自宅とは徒歩で行ける距離だったので、一度帰宅することにした。

 

今日は7月7日。七夕。

願いが叶う日だ。

線香に火を点け、おりんを鳴らし、手を合わせ、願った。

 

”もう、兄の病気を治して助けてくれとは言わない。助からないものは、助からない。ならばせめて、苦しまないように連れて行ってくれ”

 

ただ、それだけを願った。

 

 

 

 

翌日の午前3時ごろ、病院から電話があり、私たち3人は急いで病院へと向かった。

病院に着いた我々を迎え入れた看護師さんが告げた第一声は、「今呼吸が止まったところです。心臓はまだ動いています」だった。

 

3人で兄のもとへと駆け寄り、ガサガサになった腕を握り、やせ細った足を握り、その身体を揺すった。

 

「……………兄貴、お疲れさま!!もういいぞ!!もういい!!よく頑張った!!」

 

私はそう告げた。

父も似たようなことを言っていた。

しかし、母だけは泣き崩れ目を覚ましてくれと嘆いていた。

 

 

2019年、7月8日、兄は他界した。奇しくも一か月後の8月8日は、彼の誕生日だった。

 

 

私は最期に彼に告げた言葉が”お疲れさま”だったことに、何の後悔もない。

 

今思えば、兄は10年もの闘病生活において、一度も愚痴をこぼしたことがなかった。

それは兄としてのプライドだったのかもしれない。

愚痴をこぼすどころか、よく私の心配をしていた。

どれだけ弱っていようと、兄は最期まで兄であることを貫いたのだ。

そのおかげで最期には労をねぎらう言葉をかけれたのかもしれない。

 

 

 

あれから4年の歳月が流れた。

兄として生き抜いた彼の背中を、私は忘れない。

自分の中では繋がってる好きな楽曲と美少女ゲームの傾向

まず、最初に言い訳します。いい感じに酔いながらこの記事を書いています。

では、どうぞ。

 

 

 

私が中学生の頃にカリガリというバンドに出会ったんですが、これがまあかなり衝撃的でした。

 

当時の私は中二病を発症しており、「世の中ってキレイゴトだらけだよね。本当はもっとおどろおどろしいこととかあるのが真の姿なんじゃないの?」みたいに思っていて(今でもそう思ってる)愛だの恋だのをテーマにした流行歌なんかより、人の痛みや苦悩をテーマにした曲に傾倒していました。

 

その頃によく聞いていたのはV系と呼ばれる音楽たちで、Dir en grey、ムック、カリガリガゼット辺りをよく聞いていました。

私がカリガリの存在を知ったとき、既にカリガリは活動休止中だったので、レアでコアな曲という印象があり、余計に深みにはまっていったのは間違いありません。

 

まず、最初に虜になった楽曲がブルーフィルムという曲です。

これは、ベスト盤に収録されているものよりも、過去に発売した曲名と同じタイトルを冠したブルーフィルムというミニアルバムに収録されてるver.が好きです。

 

このPVはミニアルバムver.の音源のはず。

youtu.be

 

この曲を知った14歳くらいのころですかね。当時は歌詞の意味なんてちゃんと理解できていなかったんですけど、どこか郷愁感のある曲調が心地よくずっと聞いてました。カラオケでも配信されているので、たまに歌います。(ただし点数はひどい)

 

※幾つもの高い壁と幾つもの深い傷に、

 言葉もなく打ちのめされて、

 それでも歩くのなら—――。

 

という部分が後半のサビの前にあります。

こういうの好きなんです。

 

かなり電波的でイカレた曲があるのもこのバンドの特徴なのですが、私はそんなトチ狂ったような奴らがブルーフィルムの様な普通の曲を歌ってる時が最高に好きです。

 

 

 

次にご紹介したいのは『君が咲く山』という曲です。

youtu.be

この曲の素晴らしいところは、ボケーっと聞いているだけだと運動会にでも使われてそうな曲というところです。

ところが、歌詞を覗いてみるとかなりエグいです。この狂ってる感じがたまらない。

この曲は1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件(通称:酒鬼薔薇事件)をテーマに作られているともっぱらの噂です。

歌詞の中で、

 

※真っ赤な絵の具で空を描こう。

 汚れもない真っ青な空を。

 深爪をした指でなぞる、

 内気に壊れた君の色。

 

という部分があるのですが、こんだけ狂気にまみれたことを言いながら、曲調は運動会ってのが最高なのです。狂ってるんです。この手法はCARNIVALというエロゲの主題歌も近いかもしれませんね。

 

この矛盾した狂気から感じ取れる何とも形容しがたい美しさが好きです。おそらく、私が素晴らしき日々というエロゲをやって魅かれたのはその部分です。だからすば日々は2章が最高に好きなんです。

余談ですが、作詞作曲した桜井青さんは、歌詞の中で句読点を使っているのが特徴で、私がTwitterなどで句読点を多用するのは彼のマネです。この記事も句読点多いでしょ?

 

 

 

次は『冬の日』という曲です。

今の時期聞くとかなりいいと思います。

www.youtube.com

 

7分ほどあるので少し長い曲ですね。

ぶっちゃけ、この曲が何を伝えようとしているのかは今でもちゃんとわかっていません。

でも、それでもこの曲の言葉の使い方と曲調が最高に好きなんです。

 

※僕の「幸せ」は悲しくて死んだ、

 きれいで汚い大切だったもの。

 錆びた引き出しに深く閉じ込めた、

 色んな色した優しさでした。

 

わかるようで、わからんのです・・・!!

でも最高なのです。

だれかこの曲を私に解説できる人いたらコメントください。

わからないけど、この曲から漂う戻れないあの頃を思い描いてる感じがたまらんのです。

 

 

 

他にもたくさん好きな曲はあるんですが、この曲で最後にします。

『冷たい雨』という曲です。

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私が好きで好きでたまらない曲です。私の中ではこの曲が不動の1位です。

中学校の卒アルにも好きな曲としてこの曲を挙げていました。その頃から不動です。

超余談ですが、たぶんこのYouTubeに上がっているのはベスト盤に収録されてるver.です。私は再教育というアルバムに入ってる冷たい雨の方が好きです。そちらに収録されている方が質素に仕上がってるんです。

この曲自体がボロボロになったちっぽけな自分を慰める曲なので、質素な仕上がりの方が良いのです。違いを知りたいという方はアルバム貸します。さあ、秋葉原でプレマルと握手!

 

この曲に関してはどうしても語りたい箇所が2つあります。

ひとつは、サビの部分。

 

※あたり前な雨の日の風景が僕に何か伝えてる。

 「僕が僕をやめること、それが一番いけないことだよ。」と。

 雁字搦めな心の壁がどこかで壊れる音がする。

 新しい明日はきっと僕に優しい顔をするだろう。

 冷たい雨のあとで—―。

 

この曲のおかげで間違いなく今の私がいます。

とてもワガママなのかもしれませんが、たとえ誰からも認められなくても、自分を好きでありたいんです。

辛いことがたくさんあっても、自分で自分を捨ててはならない。正直でありたい。

現に私の人生で自分を捻じ曲げてでも他の何かに奉仕するような場面は幾度となくありました。

その度に心が悲鳴をあげます。僕はいやなのに。僕は辛いのに。

こんなことで悲鳴を上げる僕は頭がおかしいのかもしれない。耐えられない僕が悪いのかもしれない。僕が僕でなかったらこんなに苦しむこともないのだろうか。僕は僕でありたいのに。

 

そんなとき、いつもこの曲が背中を押してくれます。

僕が僕をやめることは一番いけないのだと。僕は僕でいいんだと。この苦しみの先にはきっと優しい世界がある。そのためにも僕をやめてはいけないんだ、と。

そうやって人生の決断をたくさんしてきました。

 

次にふたつめ。

 

※嬉しいことや悲しいこと。

 数えきれないたくさんのこと。

 明日の思い出作るから、僕は僕になるよ。

 

これは最後のサビに入る前の部分で、長めの間奏の後に入る部分です。

サビの強調ということになるんですが、ここでいう嬉しいことや悲しいこと。という部分が良いのです。そして一貫して自分を大事にするということ。自分を信じて前を進むんだという意志。これがこの曲のメッセージだと思ってます。

 

さて、一曲目に紹介したブルーフィルムでもそうだったんですが、作詞作曲を担当した桜井青さんが作る楽曲たちには、

”良いことと悪いことは切っても切り離せないのが世の理で、その中でどうしようもなく傷ついてしまうこともある。それでもめげずに頑張りたい。前を向いていきたい”

というようなメッセージ性があるものがときたまあります。たぶん、ご自身で疲れたときなんかに自分自身を励ます意味も込めて作ってる感じがあります。

 

で、その訴えていることが、その方向性が、CLANNADという美少女ゲームにそっくりなんですよ。

勝手な思い込みかもしれませんが、麻枝准も、桜井青も、「良いことと悪いことは切り離せない。それでも負けない」ってことをひたすらに訴える人だと思ってます。

そして、私はそれが真理だと思ってます。

 

さて、長くなりましたがここで今日の記事は終わりです。

私と同様に楽曲から心が救われる方が増えたら幸せです。

 

超余談ですが彼らが再活動してから「続・冷たい雨」という曲を発表したんです。製作者側も自分で冷たい雨という曲を気に入っていたからこそ、アンサーソングを作ったと思うのですが、自分と製作者の価値観の近しさに喜びを感じた反面、続・冷たい雨はちょっとバッドエンド気味という手放しで喜べない複雑な心境になりました。さすが桜井青。おそるべし。CLANNADの後の智代アフターみたいな感じで、私の尊敬する2人はどうしてもその方向にするんよ。だが、それがいい

夏休みの宿題と友情の話

あれは小学校4年生のころ。

いくつかの「がんばろう」に〇がついた二つ折りの厚紙と、こまめに持ち帰ればよかったという後悔の念が宿った大量の教科書。

それらを照り付ける日差しと、鳴りやまない蝉の声を背に受けながら持ち帰る。

先ほどの厚紙を親に渡し、いくつかの小言を受けることと引き換えに手に入れるモノがある。

そう夏休みだ。

しかし、その永遠とも言えるような長い休日にも学校の先生は目を光らせており、夏休み専用に用意された厄介な刺客を倒さねば、休み明けに大目玉をくらうことになる仕組みだ。

刺客はいくつかの種類に分かれていて、毎日毎日記録しなければ倒せないものから、数日の間机に向かえば倒せるものなど。時折友人と集まって倒すことが効果的と思われがちだが、それは大抵の場合逆効果であることは言わずもがな。

いわゆる夏休みの宿題と呼ばれるこの刺客は、早朝のラジオ体操とともに全国の少年少女から忌み嫌われ、主にお盆を過ぎたあたりから急激に駆逐され始める。

 

と、まあ、少し恋愛ADVを意識した文章の書き方はこの辺にしといて・・・

 

小学校4年生の夏休みの自由研究で、私は貯金箱を作ることにした。

なんかこうログハウス風のやつをつくったらカッコよくね?とか思い、近所のホームセンターで木材を購入し、自作することにした。

屋根の部分は丸太っぽくしたくて、購入した円柱形の木材(直径1センチ、長さ1メートルくらい)をノコギリで小分けにしていく。

目測でしか図っていないので、サイズはまちまちだったがひとつ辺り10センチ程の円柱形をいくつか用意した。

屋根と言えば三角形!そう思った私は、先ほど小分けした木材に接着剤を塗って、屋根をつくっていく。

もちろん子どもが手作業で作りあげたので、かなり不格好な屋根が完成した。

あとはこの屋根に壁と床を張れば完成である。

次にやったのは適当なサイズに切ったベニヤ板を、接着剤で屋根とくっつけるだけ。

事前にベニヤの一枚に硬貨が入る程度の穴を開けていたのは間違いないのだが、どうやって開けたんだっけな?思い出せない。

そんなこんなでお手製感満載の不格好な木製貯金箱が完成した。

夏の日差しの中、子どもがノコギリで木材を切断するというはかなりの重労働で、4時間くらいかけて作った記憶がある。

自ら作り上げたその貯金箱に愛着があり、手先が不器用な自分にしては良くできた部類で、これを提出したら人気者になるかもしれないとひそかに思っていたのは秘密だ。

 

夏休み最終日付近になってまとめて宿題を倒し、意気揚々と迎えた9月1日。

私は遅刻ギリギリに登校するタイプだったので、その日も教室のドアを開けた時にはすでに多くのクラスメイトがいた。

 

教室の後ろには皆が作ってきた自由研究が飾られていた。

木製の貯金箱というのは私の中ではとびっきりのアイデアだったのだが、案外ありきたりだったらしく、すでに飾られているものがあった。

 

私は、絶句した。

 

その木製の貯金箱は、あまりにも精巧に出来ており、しばらく目が離せなかった。

爪楊枝ほどの細い木辺を何十あるいは何百本も使ってコテージ風に作られていた木製の貯金箱。あろうことか本体だけでなく土台となる板まで用意されていた。

天地がひっくり返っても私には作れないモノがそこにあったのだ。

 

このとき、私には知らないものがあった。

いわゆる『組み立てキット』なるものが世間で売られているということ。

そして私の目を奪ったそれは組み立てキットで作られていたこと。

 

私は知らなかった。

知らなかったがゆえに、この精巧なモノは自分と同じように木材から購入し作り上げられたモノだと思い込んだ。

 

何人かのクラスメイトもその作品をべた褒めし、作った当人は「まあこれくらい簡単だよ」と鼻で笑っていた。

 

小学4年生。

いわゆる高学年の最初であり、子どもながらにプライドが芽生え始める時期。

 

その日、私は、自分の作品を提出しなかった。

 

先生には持ってくるのを忘れたと嘘をついた。ちくりと心が痛んだ。

 

そして帰り道。

私は気が気でなかった。

持ってくるのを忘れたと言ってしまったので、明日には提出しなければならない。

いや数日は誤魔化せるかもしれないが、いつかは提出しなければならない。

こんなお粗末なものをクラスの皆に晒さなければならないのだ。

恐怖でしかない。

 

なんでこんなものしか作れないんだ。

なんでこんなに不器用なんだ。

なんでこんなものがあるんだ。

提出なんて無理だ。

飾られて、比べられて、笑われるに決まっている。

クラスメイトが私の作品を指さして笑う姿が簡単に思い浮かべられる。

 

無理だ。

無理だ、無理だ無理だ無理だ無理だ。

笑いものにされる。

馬鹿にされる。

そんなの無理だ、耐えられない。

 

そして私は必死になって作り上げた木の貯金箱を、

汗を流し、指先が接着剤まみれになりながら作った小さなログハウスを、

 

学校の帰り道、公園の茂みへと、投げ捨てた。

 

帰宅してもそのことは何も言わなかった。

なにかとてつもなく悪いことをしてしまった気がして、誰にも言えなかった。

 

次の日。

先生には昨日と同じように持ってくるのを忘れたと嘘をついた。

また心が痛んだ。

 

次の日。

また同じように言った。

 

次の日も、また次の日も。

同じうように言った。もう心は痛くなかった。

それどころか毎日聞いてくる先生が煩わしいとさえ感じていた。

 

そんなやりとりを何度も繰り返すと、ある日から先生は何も聞いてこなくなった。

幼い私は先生が諦めたと思い、呪縛から解放された思いだった。

 

これは後日明らかになったことだったのだが、実態は違ったのだ。

私の様子がおかしいので、先生は少し見守ることにしたらしい。

しかし、そこから数日経っても、一向に私は自由研究を提出しない。

何かを感じ取った先生は、いつの間にか母親に連絡を入れていた。

母も母で訳が分からなかったそうな。

なぜならば、自分の息子が一所懸命にノコギリで木材を切断し、かっこいい貯金箱を作るんだ!と息巻いていたのを見ていたのだから。

 

ある日、学校から帰ると母に問い詰められた。

先生から電話があった、と。

お宅の息子さんだけ自由研究が提出されていない、と。

何かあったのではないかと先生も心配していた、と。

 

もう逃げられないと観念した私は全てを話した。

 

母は頑張って作ったんだからそれでいいんだ、と泣きながら私に話してくれた。

キレイに見えたそれは販売されているもので、一から作り上げることの方が何倍もすごいんだと、何度も何度も説明してくれた。

褒められてるのか怒られてるのか。

何だかわからないが、とてつもない後悔の波が押し寄せて、私も泣いていた。

 

投げ捨てた貯金箱を公園に探しに行ったが、あれから2週間ほど経っており、当然見つかるわけもなく、母が事情を先生に説明し、特別に私の自由研究は免除になった。

 

 

 

そして一年後。

また夏が来て、また夏休みが来た。

また、自由研究が来た。

 

凝りもせず私はまた貯金箱を作ることにした。

今年は絶対に提出すると母と約束をした。

 

貯金箱の様相は、前回苦労した屋根の部分に改良という名の手抜きを施し、ただの四角い箱型にすることに。

横をすべてアクリルにし、上下をベニヤ板で挟むことで中身が見える貯金箱を作ろうと思い立ち、昨年と同じホームセンターで材料を揃えた。

改良?が功をなし、作業時間の短縮に成功した記憶がある。

 

9月1日。

今年はちゃんと不格好でも提出する。そう決意した私だったが、やっぱり気が重い。

いくら既製品だとわかっていても見栄えがいい作品たちが並んでいるのだ。

そこに自分の作品を置かなければならない。

カバンから貯金箱を出せずに立ちすくんでいると、そんな心情など全く知らない友人が登校してきた。

 

「おう、おはよう。ちょっとコレを見てくれよ、俺の自由研究!すげぇぞ?じゃーん!!」

 

そこには紙粘土で作られた超絶怒涛に不格好な、おそらく郵便ポストをイメージしたであろう物体があった。

 

「この上の穴から金を入れるわけよ。へっへっへっ、これで俺も大金持ちだぜ!」

 

謎のポストらしき物体は、貯金箱だったらしい。

一見してポスト型の貯金箱には到底見えないそれを、自慢げに見せびらかす友人がおかしくてたまらなかった。

 

笑って、笑って、笑いころげた。

はははと笑うたびに、心が軽くなっていった。

去年抱いた私の悩みを、こいつは簡単に吹き飛ばしてくれた。

なんだ、そんな簡単なことだったのかと教えてくれた。

そんな友人に心の中で感謝をし、私も堂々と見せつけた。

 

「お前の貯金箱はまだまだだな。俺のを見ろ。中身が見えるんだぞ?すげーだろ?」

 

負けじと応戦。

二人してお互いの作品をさんざん貶しあったあと、仲良く教室の後ろに飾った。

何人かのクラスメイトが、お前らのは出来がひどい。とからかってきたので、『魂のこもり方が違う』と一蹴してやった。

クラスで1、2を争う見た目の悪い貯金箱が、誇らしげに並んでいた。

 

こういった話にはちゃんと笑えるオチがつくようで、それは翌日のこと。

お互いの作品を手に取って、どっちが優れた貯金箱なのか論争をしている最中だった。

友人のポスト型貯金箱は上部がパカっと取れて使い物にならなくなり、私の貯金箱も底板が抜けてガラクタへと姿を変えた。

あっけなく壊れた作品のモロさに笑いが止まらなくなり、お互いの不器用さを称えあった。

 

彼との友情は未だに続いており、数年前犯した私の罪も彼だけは笑ってくれた。

 

しかし、お互いに大人になり、生活環境も変わった。

彼は結婚し、家を買い、子どもが出来た。

今や立派なお父さんだ。

何かをして遊ぶということは全くなくなり、年に一度、電話でのやり取りがある程度になった。

 

先日電話をした際のこと。

最近どうだ?とわざとアバウトに聞いてやると、

 

「どうもこうもねえよ。仕事終わって今から帰るんだけどよ。カミさんから『帰ってきたら話があります』って短いLINEが入ってた。たぶん帰ったら大喧嘩だな、へへっ」

 

何をやらかしたのか知らないが、笑って大喧嘩と言えるのだから、本当の意味で深刻ではないんだなと察した。

なので、散々笑ってあげた。ばーかばーかって言っといた。

一応念のため、「まあなんかあったらいつでも言えよ。愚痴くらいならいくらでも聞くぜ」とだけ告げて電話を切った。

 

かつてのように遊ぶことはなくなったが、疎遠になったとも感じていない。

お互いに気を使うことも覚えたが、気を使わなくていい仲である安心感もそのままだ。

 

こうやって年に一度電話をするだけの関係があと何年続くのかわからない。

10年、20年と続くのかもしれないし、ひょっとしたら電話すらしなくなるかもしれない。

もしもそうなったとしても、何も問題はない。

 

絆はあの日からずっと続いている。

次に会うのが何十年先だとしても、絆が二人をあの日に戻してくれる。

 

だから、会わない日が続いたって大丈夫。

いつか顔を会わせたその瞬間、

 

「おう、聞いてくれよ」

 

って、少しカッコつけた少年の話し方に、勝手に戻るから。