プレマルの雑記

いわゆるブログです。

七夕の思い出

2019年7月7日。

病院に呼び出された。

用件は、入院している兄の様子が良くないとのことだった。

 

4人家族だった。

父と母と兄と私。

3人で、急いで病室へと向かった。

 

病室で横たわる兄を一目見てダメだとわかった。素人目に見ても明らかだった。

呼吸器をつけられてはいるものの、呼吸の仕方が普通とは違った。

下顎が上下することで無理やり口が開き、まるで鯉が水面に顔を出して口をパクパクと動かしているような呼吸だった。後に調べて知ったことだが、下顎呼吸と言い、死ぬ間際の人間の呼吸だそうだ。

 

完全に意識はないように見えた。実際、なかったらしい。

兄の鼻からは、痰のようなものが逆流しており、それが鼻の辺りを白く汚していた。

看護師さんにそれを伝えると、吸引機でとってくれたが、しばらくするとまた逆流していた。見ているのが苦しかった。

その作業を行う看護師さんからは、してもしなくても変わらないのに……といった雰囲気が漂っており、ああ、兄はもう助からないのだと私は確信した。

 

当時、喫煙者だった私と母は、タバコを吸いに一旦外へと出た。

少し傘を差したくなるような、小雨が降りしきる中、タバコに火を点け、一寸だけため息を吐き、虚空を見つめた。

 

「お兄ちゃん、今度もまた、乗り越えられるかな?」

 

母はそう私に尋ねた。

乗り越えられる? 何を言ってるんだこの人は。

もう、どう見ても駄目じゃないか。

 

 

 

遡ること10年前。2009年のこと。

兄は神経膠腫という病にかかっていたことがわかった。平たく言えば脳腫瘍だ。

外科手術で取り除いた腫瘍は、ピンポン玉ほどのサイズがあったらしく、病理検査の結果悪性であることが分かった。

一度は取り除いた腫瘍だったが、しばらくすると再発した。

そして、また取った。

また、再発した。

これを4回行った。

手術をする度に、聡明だった兄は忘れっぽくなっていった。

あれ、それ、と言った言葉が増えていった。

視野の欠損や、てんかんの発作がときたま起きるようになった。

大好きだった車の運転も出来なくなっていった。

それでも、兄は前を向いて生きてきた。

 

 

 

母が言う”乗り越える”とは、今まで繰り返してきた手術のように、再発をすれどもその都度手術をして、乗り越えたきたということだろう。

そうやって今回の窮地も、自分の息子ならば乗り越えられると信じたかったのだろう。

 

でも、今回ばっかりは無理だ。

我々家族も覚悟決めなければならない。

 

「乗り越えるとか、そういう次元じゃないと思うよ。今日を乗り越えられるかどうか、それくらいでしかないと思う」

 

そう正直に伝えた。

母は、「そっか」と短く返した。

 

 

病室に戻り、特に出来ることもなくただ兄の姿を見つめていた。

気づけば面会時間も終わりに近づいており、このまま病室にいてもいいですよ。と言われたが、病院と自宅とは徒歩で行ける距離だったので、一度帰宅することにした。

 

今日は7月7日。七夕。

願いが叶う日だ。

線香に火を点け、おりんを鳴らし、手を合わせ、願った。

 

”もう、兄の病気を治して助けてくれとは言わない。助からないものは、助からない。ならばせめて、苦しまないように連れて行ってくれ”

 

ただ、それだけを願った。

 

 

 

 

翌日の午前3時ごろ、病院から電話があり、私たち3人は急いで病院へと向かった。

病院に着いた我々を迎え入れた看護師さんが告げた第一声は、「今呼吸が止まったところです。心臓はまだ動いています」だった。

 

3人で兄のもとへと駆け寄り、ガサガサになった腕を握り、やせ細った足を握り、その身体を揺すった。

 

「……………兄貴、お疲れさま!!もういいぞ!!もういい!!よく頑張った!!」

 

私はそう告げた。

父も似たようなことを言っていた。

しかし、母だけは泣き崩れ目を覚ましてくれと嘆いていた。

 

 

2019年、7月8日、兄は他界した。奇しくも一か月後の8月8日は、彼の誕生日だった。

 

 

私は最期に彼に告げた言葉が”お疲れさま”だったことに、何の後悔もない。

 

今思えば、兄は10年もの闘病生活において、一度も愚痴をこぼしたことがなかった。

それは兄としてのプライドだったのかもしれない。

愚痴をこぼすどころか、よく私の心配をしていた。

どれだけ弱っていようと、兄は最期まで兄であることを貫いたのだ。

そのおかげで最期には労をねぎらう言葉をかけれたのかもしれない。

 

 

 

あれから4年の歳月が流れた。

兄として生き抜いた彼の背中を、私は忘れない。